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02.09.06 裕編集 03.01.08 追記 |
国名 | 英 国 GBR | ||||||||||||||||||||||||||
正式国名 | グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国 The United Kingdom of Great Britain & Northern Ireland |
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首都 | ロンドン(人口約729万人、1999年) | ||||||||||||||||||||||||||
面積 | 24.3万km2 | ||||||||||||||||||||||||||
人口 | 5,950万人(1999年) | ||||||||||||||||||||||||||
言語 | 英語(ウェールズ語、ゲール語等使用地域あり) | ||||||||||||||||||||||||||
貨幣単位 | ポンド(Pound、正しい発音は"パウンド")、ペンス(Pence)。£1=100p | ||||||||||||||||||||||||||
硬貨 | 1p、2p、5p、10p、20p、50p、£1、£2 | ||||||||||||||||||||||||||
宗教 | 英国国教約2,700万人、カトリック約900万人、イスラム教徒約100万人 | ||||||||||||||||||||||||||
ヨーロッパ大陸北西の大西洋上にある島国 |
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英連邦 | 英国と旧英領植民地から独立した合計53か国で構成される国家グループ。 英国以外の構成メンバーは、 大別して自治領(ドミニオンDominion)とよばれたオーストラリア、ニュージーランド、カナダと、 第二次世界大戦後に独立したアジア、アフリカ、オセアニアおよびカリブ海の諸国に分類される。 南アフリカも以前には自治領の立場にあったが、1961年共和制に政体を変え英連邦を離脱、94年に復帰。パキスタンは72年脱退、89年に復帰。最近の加盟には、95年のカメルーン、モザンビークがある。オセアニアとカリブ海の構成メンバーには小国が多い |
国王名 (在位) |
略歴 |
ジョージ3世 1760(宝暦10年)〜1820 |
1738-1820 ハノーバー朝第3代の国王。英国で生まれた彼は、「愛国王」としての自覚をもち、1760の即位以後、ホイッグ党の有力政治家を退けて親政を開始した。治世初期の数年間は、次々と内閣を更迭したため、政界や世論の強い反発を買った。1770にノースを首相としてからは政局は安定をみたが、米国独立革命を抑さえることができず、合衆国の独立承認を余儀なくされた。1783年にトーリー党の小ピット)を首相に任じて北米植民地政策に失敗し、以後は政治の主導権を徐々に失っていった。晩年は精神に異常をきたしたため、1811年以降、皇太子が摂政を務めた。 |
ジョージ4世 1820(文政3年)〜1830 |
ハノーバー朝第4代の国王。ジョージ3世の長男。青年期には、父王に反対するホイッグ党の政治家と交わり、カトリック教徒である女性とひそかに結婚するなど、不品行がしばしば問題にされた。1811年に摂政となり、父王の死(1820)後国王となったが、この時期にはホイッグ党の政治家とはすでに疎縁になっており、カトリック教徒解放などの改革政策に強く反対した。正式の后キャロラインとの離婚問題では、世論の強い非難を浴びた。 |
ウィリアム4世 1830(天保元年)〜1837 |
ジョージ3世の三男として生まれ、若くして海軍に入った。 1789年クラレンス公に叙される。1830年6月、兄ジョージ4世の死により王位を継承。個人的には選挙法改正に消極的であったが、1830年11月に改正派のホイッグ党グレー内閣が成立すると、同内閣を支持した。1832年5月、改正反対派による組閣を試みたが、世論の反対で失敗。以後ふたたびグレー内閣を支持し、貴族院の抵抗を抑えて6月に選挙法改正法を成立させた。次のメルバーン内閣が提案した政策にしばしば抵抗し、1834年には保守党のピールを首相としたが、1835年の総選挙におけるメルバーンの勝利をみて、政治の主導権はもはや国王にはないという事実を認めるに至った。 |
ビクトリア 1837(天保8年)〜1901 |
ハノーバー朝第6代の女王。ロンドンに生まれる。 1837年6月に18歳で女王の位についた。当時の首相、ホイッグ党のメルバーンが立憲君主としての教育を行ったが、治世初期は多難であった。1840年ゴータ公家のアルバートと結婚。1841年には皇太子(後のエドワード7世)が誕生した。 アルバートは政治面で女王を補佐した一方、科学技術や芸術の振興にも力を尽くした。1861年にアルバートが病没すると、女王は公的な舞台から遠ざかったが、政治については強い関心をもち続けた。1876年にはインド女帝を兼ねた。1887年と1897年には、それぞれ治世50年と60年の記念式典が大規模に行われ、それを機に英帝国の植民地会議が開かれた。この時代は産業革命を終えた英国が世界をリードしていた。女王はその英国の栄光の象徴であった。 |
エドワード7世 1901(明治34年)〜1910 |
サックス・コーバーグ・ゴータ(ウィンザー)朝の国王。ビクトリア女王の長男として生まれる。幼時から厳格な教育を受け、オックスフォード、ケンブリッジ大学で学ぶ。 女王は、皇太子に責任ある役割を果たさせようとせず、彼は型どおりの公務や慈善事業などを行うほかは、社交界での活動にエネルギーを費やした。しかし、外交問題への関心は深く、とりわけ英仏関係の改善に心を配った。 |
ジョージ5世 1910(明治43年)〜1936 |
1865‐1936。重厚な人格で立憲君主として国民の敬愛を受けた。 エドワード7世の次子。海軍で少年期、青年期を送った。1910年、自由党が優勢な下院と保守党が優位を占める上院との間の争いが激化しているさなかに、父王の死によって王位につき(兄は1892年に死去)、上院の力の削減につながる方策に同意した。第一次世界大戦および戦後にわたる在位期間中、英国の政治構造は大きく変化したが、1931年の「挙国」内閣の成立に際して彼が積極的役割を演じたことは、国制上の国王の権限をめぐる論議の的となった。なお、在位中(1917)、王家の名がサックス・コーバーグ・ゴータ家からウィンザー家と改称されウィンザー朝となった(ドイツ由来の家名サクス=コーバーグ=ゴータを嫌いウィンザーとした)。アイルランド自由国を承認。 |
エドワード8世 1936(1〜12月) |
(後の)国王ジョージ5世の長男として生まれ、父の国王即位により、1911年皇太子となった。 第一次世界大戦に従軍したのち、1920年代には世界各地を歴訪し、英帝国内の世論が英国から離反するのを防ぐため尽力した。196年父王の死去によってエドワード8世として即位。その年、米国人シンプソン夫人との恋が表面化した。離婚歴をもつ夫人との結婚を国王が決意したことで国論は分裂し、王は退位して夫人との結婚を選んだ。その後はウィンザー公として、夫人とともに、主としてフランスで静かな生活を送った。 |
ジョージ6世 1936(昭和11年)〜1952 |
1895 - 1952 ジョージ5世の次子。現女王エリザベス2世の父。 海軍兵学校で学んだのち、海軍に入り、第一次世界大戦にも参加した。1920年代から青少年のための活動に力を注ぎ、1936年、兄のエドワード8世(ウィンザー公)がシンプソン夫人との結婚のために王位を退いたため、国王の座についた。健康にあまり恵まれていなかったが、第二次大戦中はロンドンにとどまって王妃とともに国内の各地を訪れて国民を励まし続け、国民の間での声望を大いに高めた。 |
エリザベス2世 1952〜2022 |
ヨーク公(後のジョージ6世)の長女(1926-2022)として生まれる。 1936年エドワード8世の退位に伴い、父が国王に即位したことにより、第一位の王位継承者となった。 1947年11月エジンバラ公フィリップ(1921-2021)と結婚、父王の死で1952年2月国王となり、翌年6月、世界の耳目を集めて盛大な戴冠式を行った。 国内での種々の公務をこなすとともに、しばしば国外に出て世界各地を訪問し、英国外交に少なからぬ役割を果たしている。1975(昭和50)年5月に日本を訪れたのも、その外交活動の一環である。夫君フィリップとの間にチャールズ皇太子、アン王女、アンドルー王子、エドワード王子の4人の子がいる。 |
チャールズ3世 2022〜 |
チャールズ3世(1948- )は、英国のウィンザー朝第5代国王、その他14か国の英連邦王国及び王室属領・海外領土の君主。 イングランド国教会の首長。全名は、チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ。 エリザベス2世の在位中は、第21代ウェールズ公として長く在位した。英国陸海空軍元帥。公邸はクラレンス・ハウス。 |
チャーチル Winston Leonard Spencer Churchill 1874(明治7年)〜1965 |
保守党政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、名門貴族マールバラ公爵家に生まれる。 サンドハースト陸軍士官学校で学んだのち、陸軍に入り、インドに赴任した。その経験をもとに書いた『マラカンド野戦軍』(1898)や、『河畔の戦争』(1899)で文名をあげた。『モーニング・ポスト』紙の特派員としてブーア戦争の取材に赴き、捕虜となったが、収容所からの脱出に成功し、英雄扱いを受けた。1900年の総選挙で保守党下院議員に当選。保守党を離れ、1905年自由党内閣で植民地省政務次官となり、1908年商務相に就任、さらに内相(1910〜11)を経て、1911年海相となり、海軍の近代化に努めた。1917年ロイド・ジョージ内閣の軍需相、陸相(1918〜21)、植民地相(1921〜22)を歴任した。保守党ボールドウィン内閣では蔵相に就任(1924〜29)。第二次大戦が勃発すると、海相(1939〜40)を経て、1940年5月首相の座についた。強大な指導力を発揮し、連合国側の勝利に貢献した。第一次大戦の歴史である『世界の危機』(1923〜29)や、1953年度ノーベル文学賞を得た『第二次世界大戦史』(1948〜54)なども著作は広く読まれている(私裕は読んでいませんが)。 |
国名・地域名 | 英領カリブ地域 |
地域名 | BRITISH CARIBBEAN TERRITORIES (Eastern Group) |
首都 | - |
面積 | - |
人口 | - |
言語 | - |
貨幣単位 | (100セント=1英領西インド諸島ドル) |
宗教 | - |
リワード諸島、英領ギヤナ、バルバドス、ウィンドワード諸島、トリニダード・トバゴの地域が英領カリブ地域の東部地域を構成していた。 この地域における英国通常貨に代位するために発行された。 |
トリニダード・トバゴ | 南アメリカのベネズエラ北東沖約11キロのトリニダード島と、その北東約32キロに位置するトバゴ島からなる国 | ||||||||||
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バルバドス | カリブ海東部、小アンティル諸島中のウィンドワード諸島の東端にある島国 | ||||||||
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国名・地域名 | 英領ギアナ | ||||||||
地域名 | BRITISH GUIANA | ||||||||
首都 | ジョージタウン | ||||||||
面積 | 21.5万km2 | ||||||||
人口 | - | ||||||||
言語 | 英語 | ||||||||
貨幣単位 | 50ペンス=1英領ギアナドル | ||||||||
宗教 | キリスト教、ヒンドゥ教、イスラム教 | ||||||||
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国名・地域名 | 英領北ボルネオ | ||||||||||||||
地域名 | BRITISH NORTH BORNEO | ||||||||||||||
首都 | ジェセルトン | ||||||||||||||
面積 | - | ||||||||||||||
人口 | - | ||||||||||||||
言語 | - | ||||||||||||||
貨幣単位 | 100セント=1海峡ドル | ||||||||||||||
宗教 | - | ||||||||||||||
略史 |
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国名・地域名 | 英領西アフリカ |
地域名 | BRITISH WEST AFRICA |
首都 | - |
面積 | - |
人口 | - |
言語 | - |
貨幣単位 | 12ペンス=1シリング |
宗教 | - |
略史 |
アフリカの西海岸にあった4つの英領植民地の行政集団:ガンビア、シエラレオネ、ゴールド・コースト(ガーナ)、ナイジェリア。 1957〜1965の間にそれぞれ独立をした。 |
国名・地域 | 英領バージン諸島 |
地域名 | BRITISH VIRGIN ISLANDS |
首都 | ロードタウン |
面積 | ≒153 km2 |
人口 | 1.1万 |
言語 | - |
貨幣単位 | 100セント=1ドル |
宗教 | - |
36の諸島群でその中16は無人島で、西インド諸島のプエルトリコの東部にある。 最大等はトルトラ。 |
国名・地域 | 英領ホンジュラス |
地域名 | BRITISH HONDURAS |
首都 | 1970までベリーズ市 |
面積 | ≒22960 km2 |
人口 | - |
言語 | 英語、スペイン語 |
貨幣単位 | 100セント=1ドル |
宗教 | - |
中米のカリブ海岸にあり、17世紀に植民が行われ、スペインの反対にあいながらも繁栄した。 1862〜1884ジャマイカの一部として統治された、その後独立の王室直轄植民地となった。 1973独立ベリーズと呼称した。 |
解説 英国東インド会社 | 西洋歴史的見方で新しい西インドに対して古来のインド地域全般を東インドと呼んだ事に由来する。 英・蘭・仏などで、東洋貿易実施のため17世紀初めに設立された独占的特許会社。 英国東インド会社は1600年エリザベス女王の特許状を得て設立した。 (続いてオランダが1602年、フランスが1604年であるが、フランスの場合は、1664年に再組織されるまで活動せず、三国のうちでもっとも不振であった。) 当時オランダはこの地域では英国を上回る力で、英国東インド会社はもっぱらインドとの貿易に力を尽くし徐々にマドラス、ボンベイ、カルカッタなどを商業拠点として行きフランスの影響も排除してインド全土を支配していったが、英国東インド会社は1813年、1833年の特許状更新で貿易独占権を手放し、ついには全商業活動を停止せざるをえなくなる、1857年解散しその植民地行政機構を英国政府に引渡すことになった。ただし解散後も1874年まで株主への賠償をインド財政の中から行っていた。 |
国名 | エクアドル ECU 国名はスペイン語で「赤道」を意味 |
正式国名 | エクアドル共和国 Republic of Ecuador |
首都 | キト |
面積 | 270,670km2(本州と九州を合わせた広さ) |
人口 | 1209万人(2001年) |
言語 | スペイン語が大部分、そにほかケチュ語、ヒバロ語など。 |
貨幣単位 | 2000年3月より米ドルを採用 |
宗教 | カトリック95%、プロテスタント |
南アメリカ大陸北西部の国 |
1822 大コロンビアとして、スペインより独立 1830 大コロンビアより分離独立 1979 民政移管 |
国名 | エジプト EGY |
正式国名 | エジプト・アラブ共和国 Arab Republic of Egypt |
首都 | カイロ |
面積 | 約100万km2(日本の約2.7倍) |
人口 | 6,650万人(2001年1月) |
言語 | アラビア語 |
貨幣単位 | 1.00エジプトポンド=100pt(ピアストル) |
硬貨 | 5、10、20、25pt |
宗教 | イスラム教、コプト教(人口の6%) |
アフリカ大陸北東端にある国 |
前32世紀頃統一王朝成立。 7世紀にイスラム化。 19世紀初頭より近代化に着手し、1922年、英国より王政の国として独立。 1952 ナセル率いる自由将校団によるクーデターを経て共和制に移行。 1979 イスラエルと平和条約を締結。その結果、アラブ連盟の資格停止。 1989 アラブ連盟復帰。 1990 湾岸危機においてサウディに派兵。 |
国名 | エストニア EST | ||||||||||||||||||||||||
正式国名 | エストニア共和国 The Republic of Estonia) | ||||||||||||||||||||||||
首都 | タリン(約43万人) | ||||||||||||||||||||||||
面積 | 4.5万km2(日本の約9分の1) | ||||||||||||||||||||||||
人口 | 143.9万人 | ||||||||||||||||||||||||
言語 | エストニア語 | ||||||||||||||||||||||||
貨幣単位 | クローン(92年6月導入、8クローン=1DMの固定相場制) | ||||||||||||||||||||||||
宗教 | プロテスタント(ルター派)、ロシア正教等 | ||||||||||||||||||||||||
ヨーロッパ東北部に位置する共和国 1991年9月国連に加盟。ラトビア、リトアニアとバルト三国といわれている |
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国名 | エチオピア ETH | ||||||||||||||||||||||||||
正式国名 | エチオピア連邦民主共和国 Federal Democratic Republic of Ethiopia | ||||||||||||||||||||||||||
首都 | アディス・アベバ | ||||||||||||||||||||||||||
面積 | 109.7万km2(日本の約3倍) | ||||||||||||||||||||||||||
人口 | 6,430万人(2000年:世銀) | ||||||||||||||||||||||||||
言語 | アムハラ語、英語 | ||||||||||||||||||||||||||
貨幣単位 | ブル(birr/Br) | ||||||||||||||||||||||||||
宗教 | キリスト教(コプト派)、イスラム教 | ||||||||||||||||||||||||||
アフリカ大陸の北東部にある共和国 アフリカ諸国のうち植民地となることを拒否してきた唯一の国 |
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ハイレ・セラシエ1世 Haile Selassie I 1892-1975 |
エチオピア皇帝。1930〜1974在位 ハイレ・セラシエは三位一体の意。即位前の名はラス・タファリ・マコンネン。 皇帝メネリク2世の従弟マコンネン王子の息子としてハラル州に生まれる。1910年ハラル州知事となり、開明政策を実施。1916年メネリク2世の娘ザウディツ女王の摂政となり、1930年女王の死とともに皇帝に即位。憲法制定、議会・司法制度を導入し、奴隷制度廃止、教育の普及に努める。1935年イタリアのエチオピア侵略が起こり、1936年英国へ亡命。1941年帰国。国内の改革を図るとともに、対外的には汎アフリカニズム、非同盟主義を掲げ、1963年独立アフリカ諸国の元首からなるアフリカ統一機構(OAU)の設立に尽力し、その本部を首都アディス・アベバに置いた。しかし1973年の飢饉を契機に国内の不満が高まり、1974年軍事クーデターが起こり、同年9月皇帝は廃位され、軟禁されたまま1975年8月27日死去した。 |
国名 | エルサルバドル ESA | ||||||||||||||||||
正式国名 | エル・サルヴァドル共和国 Republic of El Salvador | ||||||||||||||||||
首都 | サン・サルヴァドル | ||||||||||||||||||
面積 | 21,040km2(九州の約半分) | ||||||||||||||||||
人口 | 640万人(2001年経済省統計局) | ||||||||||||||||||
言語 | スペイン語 | ||||||||||||||||||
貨幣単位 | 1コロン(Colon)=100センタボス。 | ||||||||||||||||||
硬貨 | 5、10、25、50センタボスと1コロン | ||||||||||||||||||
宗教 | 伝統的にカトリック | ||||||||||||||||||
中央アメリカの太平洋に面した、中米諸国中もっとも小さな国 |
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