No.9   英国 


Great Britain
英国
貿易銀 銀
YT1 1912(明治45年)
ジョージ3世
英国
1/2ペニー 銅
C20 1807(文化4年)
ジョージ4世
英国
1ファーシング 銅
C52 1823(文政6年)
ビクトリア女王
英国
1ファーシング 青銅
Y16.1 1861(文久元年)
英国
1/2ペニー 青銅
Y17.2 1886
英国
1ペニー 青銅
Y18 1879
英国
1/2ペニー 青銅
Y33 1899
英国
1/2ペニー 青銅
Y33 1899
エドワード7世
英国
1ファーシング 青銅
Y46 1907(明治40年)
英国
1ペニー 青銅
Y48 1902
ジョージ5世
英国
1ファーシング 青銅
Y60.3 1927(昭和2年)
英国
1/2ペニー 青銅
Y61.1 1915
英国
1/2ペニー 青銅
Y62 1931
英国
1ペニー 青銅
Y63.1 1917
英国
1ペニー 青銅
Y64 1928
英国
3ペンス 銀
Y65 1914
英国
3ペンス 銀
Y70 1935
英国
6ペンス 銀
Y71 1928
ジョージ6世

英国
1ファーシング 青銅
Y82 1948(昭和23年)
英国
1/2ペニー 青銅
Y62 1944
英国
1ペニー 青銅
Y84 1938
英国
3ペンス ニッケル黄銅
Y85 1942
英国
3ペンス 銀
Y86 1940
英国
6ペンス 銀
Y87 1944
英国
1/2ペニー 青銅
Y105 1950
英国
2シリング 白銅
Y111 1950
英国
1ファーシング 青銅
Y116 1953
英国
2シリング 白銅
Y123 1953
英国
1/2ペニー 青銅
Y128 1964
英国
1ペニー 青銅
YA128 1967
英国
3ペンス ニッケル黄銅
Y129 1964
英国
6ペンス 白銅
Y130 1954

英国
1シリング 白銅
Y131 1957

英国
1シリング 白銅
Y132 1957
英国
2シリング 白銅
Y133 1967
英国
1/2クラウン 白銅
Y134 1964
チャーチル
英国
1クラウン 白銅
Y138 1965
英国
1/2新ペニー 青銅
Y139 1982
英国
1新ペニー 青銅
Y140 1984
英国
2新ペニー 青銅
Y141 1978
英国
5新ペンス 白銅
Y142 1970
英国
10新ペンス 白銅
Y143 1968
英国
50新ペンス 白銅
Y144 1979
英国
25ペンス 白銅
Y145 1972
エリザベス女王御成婚25年記念
英国
25ペンス 白銅
Y147 1977
エリザベス2世在位25年記念
英国
25ペンス 白銅
Y148 1980
エリザベス女王皇太后80歳記念
英国
1クラウン 白銅
Y149 1981
チャールズ皇太子御成婚記念
英国
20ペンス 白銅
Y155 1982
英国
1ポンド ニッケル黄銅
Y157 1983
英国
1ポンド ニッケル黄銅
Y158 1984
国王名 略  歴
ジョージ3世
1760(宝暦10年)〜1820
1738-1820
ハノーバー朝第3代の国王。英国で生まれた彼は、「愛国王」としての自覚をもち、1760の即位以後、ホイッグ党の有力政治家を退けて親政を開始した。治世初期の数年間は、次々と内閣を更迭したため、政界や世論の強い反発を買った。1770にノースを首相としてからは政局は安定をみたが、米国独立革命を抑さえることができず、合衆国の独立承認を余儀なくされた。1783年にトーリー党の小ピット)を首相に任じて北米植民地政策に失敗し、以後は政治の主導権を徐々に失っていった。晩年は精神に異常をきたしたため、1811年以降、皇太子が摂政を務めた。
ジョージ4世
1820(文政3年)〜1830
ハノーバー朝第4代の国王。ジョージ3世の長男。青年期には、父王に反対するホイッグ党の政治家と交わり、カトリック教徒である女性とひそかに結婚するなど、不品行がしばしば問題にされた。1811年に摂政となり、父王の死(1820)後国王となったが、この時期にはホイッグ党の政治家とはすでに疎縁になっており、カトリック教徒解放などの改革政策に強く反対した。正式の后キャロラインとの離婚問題では、世論の強い非難を浴びた。
ウィリアム4世
1830(天保元年)〜1837
ジョージ3世の三男として生まれ、若くして海軍に入った。
1789年クラレンス公に叙される。1830年6月、兄ジョージ4世の死により王位を継承。個人的には選挙法改正に消極的であったが、1830年11月に改正派のホイッグ党グレー内閣が成立すると、同内閣を支持した。1832年5月、改正反対派による組閣を試みたが、世論の反対で失敗。以後ふたたびグレー内閣を支持し、貴族院の抵抗を抑えて6月に選挙法改正法を成立させた。次のメルバーン内閣が提案した政策にしばしば抵抗し、1834年には保守党のピールを首相としたが、1835年の総選挙におけるメルバーンの勝利をみて、政治の主導権はもはや国王にはないという事実を認めるに至った。
ビクトリア
1837(天保8年)〜1901
ハノーバー朝第6代の女王。ロンドンに生まれる。
1837年6月に18歳で女王の位についた。当時の首相、ホイッグ党のメルバーンが立憲君主としての教育を行ったが、治世初期は多難であった。1840年ゴータ公家のアルバートと結婚。1841年には皇太子(後のエドワード7世)が誕生した。
アルバートは政治面で女王を補佐した一方、科学技術や芸術の振興にも力を尽くした。1861年にアルバートが病没すると、女王は公的な舞台から遠ざかったが、政治については強い関心をもち続けた。1876年にはインド女帝を兼ねた。1887年と1897年には、それぞれ治世50年と60年の記念式典が大規模に行われ、それを機に英帝国の植民地会議が開かれた。この時代は産業革命を終えた英国が世界をリードしていた。女王はその英国の栄光の象徴であった。
エドワード7世
1901(明治34年)〜1910
サックス・コーバーグ・ゴータ(ウィンザー)朝の国王。ビクトリア女王の長男として生まれる。幼時から厳格な教育を受け、オックスフォード、ケンブリッジ大学で学ぶ。
女王は、皇太子に責任ある役割を果たさせようとせず、彼は型どおりの公務や慈善事業などを行うほかは、社交界での活動にエネルギーを費やした。しかし、外交問題への関心は深く、とりわけ英仏関係の改善に心を配った。
ジョージ5世
1910(明治43年)〜1936
1865‐1936。重厚な人格で立憲君主として国民の敬愛を受けた。
エドワード7世の次子。海軍で少年期、青年期を送った。1910年、自由党が優勢な下院と保守党が優位を占める上院との間の争いが激化しているさなかに、父王の死によって王位につき(兄は1892年に死去)、上院の力の削減につながる方策に同意した。第一次世界大戦および戦後にわたる在位期間中、英国の政治構造は大きく変化したが、1931年の「挙国」内閣の成立に際して彼が積極的役割を演じたことは、国制上の国王の権限をめぐる論議の的となった。なお、在位中(1917)、王家の名がサックス・コーバーグ・ゴータ家からウィンザー家と改称されウィンザー朝となった(ドイツ由来の家名サクス=コーバーグ=ゴータを嫌いウィンザーとした)。
アイルランド自由国を承認。
エドワード8世
1936(1〜12月)
(後の)国王ジョージ5世の長男として生まれ、父の国王即位により、1911年皇太子となった。
第一次世界大戦に従軍したのち、1920年代には世界各地を歴訪し、英帝国内の世論が英国から離反するのを防ぐため尽力した。196年父王の死去によってエドワード8世として即位。その年、米国人シンプソン夫人との恋が表面化した。離婚歴をもつ夫人との結婚を国王が決意したことで国論は分裂し、王は退位して夫人との結婚を選んだ。その後はウィンザー公として、夫人とともに、主としてフランスで静かな生活を送った。
ジョージ6世
1936.12.11〜1952.2.6
1895 - 1952 ジョージ5世の次子。現女王エリザベス2世の父。
海軍兵学校で学んだのち、海軍に入り、第一次世界大戦にも参加した。1920年代から青少年のための活動に力を注ぎ、1936年、兄のエドワード8世(ウィンザー公)がシンプソン夫人との結婚のために王位を退いたため、国王の座についた。健康にあまり恵まれていなかったが、第二次大戦中はロンドンにとどまって王妃とともに国内の各地を訪れて国民を励まし続け、国民の間での声望を大いに高めた。
エリザベス2世
1952.2.6〜2022.9.8    
ヨーク公(後のジョージ6世)の長女として生まれる。
1936年エドワード8世の退位に伴い、父が国王に即位したことにより、第一位の王位継承者となった。1947年11月エジンバラ公フィリップと結婚、父王の死で1952年2月国王となり、翌年6月、世界の耳目を集めて盛大な戴冠式を行った。国内での種々の公務をこなすとともに、しばしば国外に出て世界各地を訪問し、英国外交に少なからぬ役割を果たしている。1975(昭和50)年5月に日本を訪れたのも、その外交活動の一環である。夫君フィリップとの間にチャールズ皇太子、アン王女、アンドルー王子、エドワード王子の4人の子がいる。
チャーチル
1874(明治7年)〜1965
保守党政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、名門貴族マールバラ公爵家に生まれる。
サンドハースト陸軍士官学校で学んだのち、陸軍に入り、インドに赴任した。その経験をもとに書いた『マラカンド野戦軍』(1898)や、『河畔の戦争』(1899)で文名をあげた。『モーニング・ポスト』紙の特派員としてブーア戦争の取材に赴き、捕虜となったが、収容所からの脱出に成功し、英雄扱いを受けた。1900年の総選挙で保守党下院議員に当選。保守党を離れ、1905年自由党内閣で植民地省政務次官となり、1908年商務相に就任、さらに内相(1910〜11)を経て、1911年海相となり、海軍の近代化に努めた。1917年ロイド・ジョージ内閣の軍需相、陸相(1918〜21)、植民地相(1921〜22)を歴任した。保守党ボールドウィン内閣では蔵相に就任(1924〜29)。第二次大戦が勃発すると、海相(1939〜40)を経て、1940年5月首相の座についた。強大な指導力を発揮し、連合国側の勝利に貢献した。第一次大戦の歴史である『世界の危機』(1923〜29)や、1953年度ノーベル文学賞を得た『第二次世界大戦史』(1948〜54)なども著作は広く読まれている(私裕は読んでいませんが)。



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