露西亜帝国豆辞典
Rossiiskaya imperia
首都はサンクト・ペテルブルク (1712-1918)
 東方正教※が国教
キリスト教三大主流の一つ。ロシア・東欧・中東に分布する14の独立教会の連合体。コンスタンチノープルを中心に発展し11世紀にローマカトリックと絶縁。東方オーソドックス。
皇帝旗
ロシア皇帝の紋章
双頭の鷲と聖ゲオルギーの竜退治※を
図案化したものです。
13世紀に伊で出版された聖人伝記集「黄金伝説」に記されているそうです。
シレナという小王国の湖に棲む悪竜ドラゴンが生贄として要求した美姫を通りすがりの聖者・勇者ゲオルグが救ったという(大雑把過ぎますが)お話です。
02.12.15裕・追記
       
ロマノフ(王)朝  Романовы Romanovi      
  14世紀モスクワに来たプロイセン(独北東部の国)貴族 アンドレアス・コビュラが始祖と言われています。ロマン・ユリエビィチ(?−1543)の名を取りロマノフ家と称しました。
1613(慶長18)年ツァーリを選挙し、全国会議(ゼムスキー・ソボール)でミハイル・ロマノフが選ばれ即位しロマノフ朝が成立しました。ピョートル1世時代にロシアは急速な近代化を遂げ、北方戦争勝利後の1721年に国名をロシア帝国としました。
1917(大正6)年の二月革命でニコライ2世が退位するまで300余年に及びロシアを支配しました。
1613-1645 ミハイル 1730-1740 アンナ 1801-1825 アレクサンドル1世
1645-1676 アレクセイ・ミハイロヴィチ 1740-1741 イワン6世 1825-1855 ニコライ1世
1676-1682 フョードル3世 1741-1761 エリザヴェータ 1855-1881 アレクサンドル2世
1682-1725 ピョートル1世 1761-1762 ピョートル3世 1881-1894 アレクサンドル3世
1725-1727 エカチェリーナ1世 1762-1796 エカチェリーナ2世 1894-1917 ニコライ2世
1727-1730 ピョートル2世 1796-1801 パーヴェル1世

      
ミハイル (ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ) (1596−1645)(在位1613-1645モスクワ生まれ、モスクワにて自然死
  1613年2月21日ポーランド干渉軍から解放のモスクワで、領主諸階層、コザック、富商らの支持で即位(しかし依然として国内にはポーランド軍とスウェーデン軍が駐屯していました)、即位後6年間は貴族会議、全国会議と協議したうえで国を治めました。(病身で意志弱かったといわれ)1619年以降は、ポーランドから解放されモスクワに帰還し総主教となった父フィラレートが事実上の統治権を1633年死亡するまで握り貴族領主の代弁をしました。
治世は経済復興期に当り産業の振興をはかり軍隊強化にも努めました。1617年スウェーデンと1618年ポーランドと和したが、失地回復のため1632〜34年ポーランドとの戦争は失敗しました。1645年夏病(水腫)に倒れ、16歳の息子アレクセイを後継に指名すると、7月13日の未明に息をひきとりました。
アレクセイ・ミハイロヴィチ(アレクセイ・ミハイロヴィチ・ロマノフ) (1629−1676)(在位1645-1676モスクワ生まれ、モスクワにて自然死。
  短気で悪事を働いた者を容赦なく罰する一面もあったが明るく思いやり深い性格だった為「もっとも静かなツァーリー」と呼ばれ露の近代化を目指した有能な支配者とされています。1649年法典で農奴制の法的形成を完了、1654年からのポーランドとの13年戦争で当時学問の中心地であったキエフを手に入れ次ぎの時代へ西欧文化・思想に触れる道を開いたとされています。1656年戦費をまかなう為の通貨引下げやそれからの銅貨の乱発に端を発した1662年のモスクワでの暴動、1668年ステンカ・ラージンの政府の重荷から解放するという反乱などもありましたが鎮圧、ウクライナに領土を獲得したことによりトルコと衝突していましたが1676年1月29日急死。(着手していた近代化と領土拡張はフョードルをへ末息子ピョートル大帝に引き継がれることになります。)
フョードル3世(フョードル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ) (1661−1682)(在位1676-1682モスクワ生まれ、モスクワにて自然死。
  14歳で即位したフョードルは高い教育を受けた信心深く文学に強い関心を寄せていたといわれています。政策面では前政権からそれることはなく、トルコとの戦争は1682年前年に合意していたバフチサライ条約を承認することで終結し、トルコがポドリア領有権を得る代わりにキエフを保有する事になりました。政府は、長年の泥棒に対する刑罰手足を切り落とす慣習を廃止してシベリア流刑を導入しました、また1680年には土地調査を開始して露・中央部の土地が台帳に登記されることになりました。1681年妃アガフィヤは息子を出産したが共に亡くなり、1682年2月2番目の妃を迎えましたが1682年4月27日後継者を指名することなく崩御。
ピョートル1世ピョトル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ) (1672−1725)(在位1682-1725モスクワ生まれ、ST.ペテルブルクにて病死
  父アレクセイ後妻ナタリア。義兄フョードル3世没後皇帝になったが義姉ソフィアによって宮廷から遠ざけられました。1689年実権を手に入れましたが政務は母の没する1694年迄母に委ねました。 西欧の技術文化の摂取、富国強兵に努め、北方戦争でバルト海岸に進出。西欧への窓として新都(1703年)創建1725年よりペテルブルグ(サンクト・ペテルブルク)と呼ぶようになります。官僚機構を整備、中央集権制を確立。農奴制度を強化し、官営諸工場を設置するなど産業育成にも尽力。啓蒙専制君主の典型。後世大帝と称されましたが当時は伝統を無視し性急な改革とことさら旧習に逆らう粗暴な生活態度から一部貴族の反発をかい皇太子アレクセイもこれに加わったとして1718年獄死させました。1725年寒中溺れた水兵を救おうとして引いた風邪で急死、皇位継承法を行使していなかった事を良い事に、貴族寡頭政治の一時期を現出させました。後継者には北方戦争で捕われたリトアニアの百姓女で後に正式な后になったエカチェリナがなりました。
エカチェリーナ1世(マルファ・スカヴロンスカヤ) (1684−1727)(在位1725-1727リンゲン生まれ、ST.ペテルブルクにて熱病により死亡。 (カザリン1世ともいう)
  ピョートル1世の皇后。リトアニアのカトリック農民の家に生まれ、幼時離散した為ルター派牧師に養われ長じてスエーデン人に嫁したが北方戦争中捕えられロシアに連行されメンシコフ公の妾となるが1705年に帝に知られ愛を受けるようになり、ロシア正教に改宗してエカチェリナと改名しました。1712年正式に結婚、無学で教養なく酒を好んだが、物分りが良く、粗暴な振舞いが多かったピョートルを理解して帝のよき妻であったといわれているようです。ピョートルが1725年後継者の指名をせずに没したのち、メンシコフらの新貴族と近衛連隊の支持を得て即位しましたが、わずか2年の在位中政治は1726年設立された最高枢密院のメンシコフらの手に握られ、ピョートル1世の孫ピョートルを後継者に指名しました。ロシアは女帝とともにしばらく貴族の寡頭政治のもとにおかれる事となりました。
ピョートル2世(ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ) (1715−1730)(在位1727-1730ST.ペテルブルク生まれ、モスクワで天然痘で病没。
  11歳で皇帝の座につきました。ピョートルが興味を示したのは狩猟と玉突きとダンスだったといわれています。実権を握るメンシコフが娘のマリヤとの婚約を発表した事で、反発したドルゴルーキー家を中心に結束した貴族達に失脚に追いやられメンシコフはシベリアで1729年死亡。宮廷はモスクワに移され再びモスクワが首都になりました。ドルゴルーキー派のアレクセイの娘エカチェリーナとの婚約がすすめられたが、1730年1月結婚式が予定されていたまさにその日に天然痘に冒されてこの世を去ったそうです。
アンナ(アンナ・イワノヴナ・ロマノヴァ)(1693−1740)(在位1730-1740モスクワ生まれ、ST.ペテルブルクにて肝機能不全=病死
  父はイワン5世、未亡人であったアンナは再婚しない条件で帝位につきました。国政にほとんど関心を示さなかったといわれ、女帝の恋人独・士族ビローンが強圧的な政策にあたったといわれていますが、ロシア人がピョートル大帝の治世から引継いだものを実施したそうです。外交はオーストリアとは友好を維持し仏軍とポーランド継承戦争で戦い、トルコとも1736年交戦1739年講和条約では僅かな領土しか得られませんでした、文化芸術の庇護もしたといわれていますがバレーなどの限定分野であったようです体調思わしくなかった女帝は姪のアンナ・レオポリドヴナが産む子に帝位を継がせようとしイワンを出産すると直ちに子の幼児を後継者とし、ビローンを摂政に任命しました、享年47歳でした。
イワン6世(ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルのイワン・アントロノヴィチ)(1740−1764)(在位1740-1741STペテルブルク生まれ、シュリッセリブルクで刺殺
  イワン6世は生後2ヶ月の1740年10月に帝位につきましたが、11月摂政ビローンがクーデターで失脚、母アンナ・レオポリドヴナが摂政につくが国政に関心示さず内閣がその任に当りました。1741年11月エリザヴェータのクーデターで幽閉生活の中で育ったが復権が企てられた時は殺すようにエリザヴェータが命じていたので、その後エカチェリーナ2世も同じ命令を発し、体制に不満を抱いた士官が助け出そうとした時シュリッセリブルク要塞で看守に刺し殺されました。
エリザヴェータ(エリザヴェータ・ペトロヴナ・ロナノヴナ) (1709-1761)(在位1741-1761コロメンスコエ生まれ、ST.ペテルブルクにて病死
  父ピョートル1世母エカチェリーナ2世の子、自らはほとんど国政をみなかったそうで、派手で遊び好き生涯独身生活で政治はピョートル時代への復帰を建前に寵臣達に任せ、前代の内閣制を廃止し(皇帝親政を伴わない)元老院の地位と権限を復活させたが政策計画調整としてほとんど機能しなかったようです、晩年は7年戦争への参戦に伴って設けられた「宮廷付属協議会」が内政についても政策決定機能を果たしました。人頭税課税の為の最初の人口調査1719年で農奴≒320万、第2回1745年には≒345万、第3回1763年には≒380万と増えましたが農村人口全体の割合は僅かに低下しましたが、農奴制は発展したといわれています。
ピョートル3世(ホルシュタイン・ゴットルプのカール・ピョートル・ウルリヒ) (1728−1762)(在位1762キール生まれ、ロプシャにて殺害さる
  ピョートル1世の娘アンナ(ホルシュタイン候に嫁した)の子、露に来てからも独人気質抜けずプロイセン式の規律強制しました。1761年12月帝位につきました。1762年「貴族を国家勤務の義務から解放する宣言書」発布、宮廷付属協議会の廃止など行政機構の簡素化を望んだといわれ、4月にプロイセンとの講和条約6月同盟を批准し、(生家の為といわれる)デンマークに戦争をしかけようとした結果、6月近衛部隊のオルロフ兄弟らのクデター(エカチェリーナ同意を得ていた)で廃位。7月軟禁されていたロプシャの領地でオルロフ一味により殺害されました。
エカチェリーナ2世(アンハルト・ツェルプストのゾフィー・アウグスタ・フリデリーケ) (1729−1796)(在位1762−1796) ST.ペテルブルクにて病死
    (辞書によっては、エカテリーナ2世 と表記されているものもある)
  独シュテッティンに生まれました。1745年帝位予定のピョートル(女帝エリザヴェータの甥)と結婚する。1762年ピョートル3世の即位後愛人オルロフら近衛士官の支持のもとクーデターにて帝位を得ました。フランス文化に傾倒、啓蒙専制君主を自任。1773年プガチョフの反乱(農民戦争)を鎮圧、農奴制強化、ポーランド分割に参加西方に領土拡大。1774年に終わったトルコとの戦争で黒海岸へ宿望の進出。この後領土拡大をはかりました。女帝の晩年農奴制は質量とも発展の頂点に達し貴族帝国となりました。私生活では、家庭生活には恵まれず、淫蕩で晩年まで愛人に事欠かなかったが、愛に溺れ政治上の判断を誤ることはなかったといわれています。女帝の宮廷中心に発達したサロンと基調をなした仏貴族文化は永く露貴族の生活・教養を形作り露社会の上・下層の隔たりを決定付けたといわれています。
パーヴェル(パーヴェル・ペトロヴィチ・ロマノフ)(1754-1801)在位1796−1801ST.ペテルブルク生まれ、ST.ペテルブルクで殺害さる。
  ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子、その治世は恐怖政治と特徴づけられています。戴冠式の日に発布された帝位継承法と「農民の日曜労働を禁止する勅令」は有名で、その治世に農奴制はかえって強化されたとされています。1799年第2回対仏大同盟に参加したが1800年ナポレオンと和し、共同して印度遠征を計画しました。外国書の輸入を禁止し、軍隊式の規律を国内政治の全般に拡大し専制政治をしいたが、「貴族への特権許可状」の侵害と外交政策などの転換が貴族層の不満をよび、首謀者はST.ペテルブルク総督パーレン伯爵で後継者皇太子アレクサンドルも同意していたといわれる、宮廷クーデターのよって殺害されました
アレクサンドル1世(アレクサンドル・パヴロヴィチ・ロマノフ)(1777-1825)在位1801−1825ペテルブルク生まれ、タガンログで熱病によって
  ナポレオン1世のロシア遠征を撃退した事(-1813年)は有名な出来事です。ウィーン会議(1814- 1815年 )参加後は神聖同盟を主唱し、内外の自由主義を抑圧、このころから専制君主としての性格を顕し〔1809年フィンランド合併〕ウィーン会議で創製したポーランド王国にも国王として憲法を与えたが、自らはこの憲法を蹂躙即位当初念願していた農奴制の廃止についても僅かバルト3州にとどまり、しかも農奴制より過酷な屯田制を設けました。1824年丹毒(急性の炎症)に冒され、愛人が産んだ娘を亡くし、同年St.ペテルブルクが洪水に襲われ、1825年温暖な地タガンログ(アゾフ海沿岸)で皇后を過ごさせようとしたその地で熱病で崩御。実際には生きていて各地を放浪する聖者になったという伝説が広く語り継がれる事になったりもしたそうです。自由思想に共鳴した若き日と保守反動姿勢をとった晩年との落差を宗教的な目覚めに求める説もあります
ニコライ1世(ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ) (1796−1855)在位1825−1855) ST.ペテルブルクにて病死
  パーヴェル1世の第3子。その治世は農奴制から資本主義への転換期で、産業の発達、露文学の興隆(プーシキン<近年コインになりました>等)、カンクリンの幣制改革(1839-43年)等々が行われましたが農奴制廃止断行できず西欧諸国から決定的な遅れの原因をつくった。露領土拡大を図り、クリミア戦争※(1853-1856年=パリ講和)で敗れ傷心の内に死にました。
露南下政策特にパレスチナ管理権をめぐる対立が発端。トルコ・英・仏・サルデーニャ(北伊の小国)連合軍との戦争。なお、野戦病院創始者英フローレンス・ナイチンゲール(1820−1910年)の活躍。露トルストイ(1828−1910年)も従軍し<セヴァストーポリ物語>をかいた。戦死英3万3千人、仏8万2千人といわれ多くの犠牲者を出しました。
アレクサンドル2世(アレクサンドル・ニコラーエヴィチ・ロマノフ) (1818−1881)(在位1855−1881モスクワ生まれ、ST.ペテルブルクにて暗殺さる
  ニコライ1世の長子。クリミア戦争状況のもと帝位。その治世は露の産業革命期で資本主義の発達にともない農民層分解、貴族層没落進行し1870年代ナドーロニキ(人民主義者)革命運動激化。1861年農奴解放令等ツァーリズム体制近代化を推進しましたが、治世後半は反動化の方向をとったそうで、本心からの自由主義者ではなかったといわれています。1867年アラスカを米国に売渡しました。1875年日本と取引し千島列島をサハリンと交換しました。1881年3月1日ナロードニキテロリストにより暗殺されました。
アレクサンドル3世(アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ) (1845−1894)(在位1881−1894)ST.ペテルブルク生まれ、リヴァディアにて死亡 
  アレクサンドル2世の次子。長兄ニコライの死(1865年)で予期せぬ皇位継承者となったため統治者としての教養を欠いて、ロマノフ朝君主の内最も反動的な1人といわれています。その治世は、露資本主義の完成期にあたり、1891年シベリア鉄道着工。産業プロレタリアートが成熟しナロードニキに変わりマルクス主義の労働運動となってきました。対外政策は独との関税戦争、軍事的脅威からおおむね仏接近をはかったそうです。
ニコライ2世(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ) (1858−1918)(在位1894−1917ST.ペテルブルク生まれ、エカチェリンブルクにて射殺さる
  アレキサンドル3世の長子。その治世は、露が軍事的・封建的帝国主義への時代であり、社会革命党のテロ、社会民主労働党指導のゼネストが続発しましたが父祖ゆずりの専制政治を継続し、立憲政治の導入に反対しました。皇太子時代の1891(明治24)年来日、巡査津田三蔵に刺され負傷(大津事件)しました。性格、善良・教養もありましたが、意志弱く皇帝としては不適格であったといわれています。日露戦争に敗北し、第1次世界大戦末期の1917年二月革命で帝政崩壊。1918年7月17日シベリアで家族とともに処刑されました。
      
  大阪造幣局で製造されたロシア貨幣     (わたしが露西亜コイン収集に進んで行った切掛けでもありました)
  ロシアとは、日露戦争で対立関係にありましたが、1907(明治40)年の第1次日露協約〜1916年第4次協約(同盟協約)で関係は好転しつつありました。そのような状況でロシア政府は低額面貨幣の不足に対応すべく10 カペイカ、15カペイカ銀貨の製造の一部を日本政府に依頼してきました。そこで日本政府は3月〜12月まで製造しました。その数量は
10K---70,001,000枚      15K---96,666,000枚  が(日本の大阪)造幣局で製造されました。
  なお、(ロシアの)ST.PETERSBURG造幣局でも1916年銘で下記の数量製造されています。
10K---121,500,000枚     15K---96,773,000枚   
朝鮮・満州の支配権をめぐり、1904(明治37)年2月4日御前会議で開戦決定。1905(明治38)年9月5日米・ルーズベルト大統領の仲介でポーツマス講和条約調印。日本戦病死者12万人、露11万5千人。といわれ多くの犠牲者を出しました。 
☆上記戦病死者数は平凡社世界大百科事典の数字です。国立公文書館の資料では日本の戦死者数55,655人負傷者数144,352人となっています。
       
   
   参考資料    参考図書    関連リンク
講談社版   日本語大辞典 山川出版社 世界歴史大系・ロシア史 「世界の大型銀貨」ロシア頁/AKIさん
平凡社版 世界大百科事典 山川出版社 世界各国史4・ロシア史
小学館版 日本大百科全書ポケット版 創元社    ロシア皇帝歴代誌
岩波書店版 広辞苑第五版 ミネルヴァ書房 ロシア近現代史



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