しん
清
1644-1912
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中国の王朝のひとつ。満州族の王朝。
1616年〜1912年(満州人)女真族の初代:ヌルハチが北方に後金国を建て、二代皇帝太宗ホンタイジが国号を大清と改称した。1644年三代:順治帝が北京を都とした。
続く四代:康煕(コウキ1661‐1722)・五代:雍正(ヨウセイ1722‐1735)・六代:乾隆(ケンリュウ1735‐1795)の3帝130余年が全盛期であった。
1790年代の後半から各地で続発する民衆反乱を皮切りに、清王朝の統制が利かなくなり、1840年のアヘン戦争で列強に徹底的に痛めつけられ1850年の太平天国の乱と続き、皇帝宣統帝の代・1912年、辛亥革命によって王朝時代の幕が下りた。
11代:光緒帝(1874‐1908)・12代:宣統帝溥儀(1908‐1912) |
こうしょてい
光緒帝
(1871-1908)
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清朝第11代皇帝(在位1875〜1908)。母が西太后(せいたいこう)の実妹であったので、その後ろ盾によって、わずか4歳で即位。事実上の政権は西太后に握られ、名目だけの皇帝にすぎず、生涯西太后の専横に苦しんだ。その治世は清仏戦争、日清戦争などの外圧が相次ぎ、また国内においても社会不安が増大し、その危機打開のため、日本の明治維新に倣って改革を図る変法自強(へんぽうじきょう)策をいれ、1898年、戊戌(ぼじゅつ)の変法を始めた。その改革は西太后ら守旧派勢力の妨害を受け、守旧派のクーデターによりくつがえされ、もろくも失敗し、帝自身も北京城内に幽閉された。1900年義和団の乱が起こると、西太后とともに西安へ逃れた。1901年和議がなり、北京帰還後も事実上の幽閉生活が続き、革命運動などで揺れる清末の政局にかかわりをもたなかった。 |
ふぎ (プーイー)
溥儀
(1906−1967) |
中国の清朝最後の皇帝(宣統帝(せんとうてい)、在位1908〜1912)、のち「満州国」皇帝(康徳帝、在位1934〜1945)。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)。満族。光緒(こうちょ)帝の弟醇(じゅん)親王載ホウ(さいほう)の子。
1908年、3歳にならずして第12代皇帝に即位、宣統帝と称した。1924年(大正13)日本に保護され、1931(昭和6)年「満州事変」に際して日本軍にひそかに連れ出され、1932年「満州国」執政、1934年その「皇帝」となった。1945年「満州国」崩壊とともソ連に抑留。1946年8月、極東国際軍事裁判(東京裁判)の証人として出廷、1950年、撫順の戦犯管理所に収容された。1951年、特赦によって北京に帰り、1961年、中国人民政治協商会議文史研究委員会の専門委員。1964年数奇を極めた自伝『わが半生』を書いて出版。1967年10月、死去した。 |
ちゅうかみんこく
中華民国
中華民国国民政府
略称は国府 |
1911年辛亥革命で清朝が倒れ、1912年1月共和国が成立してから1945年10月中華人民共和国が成立するまでの国号。
北洋軍閥の総帥 袁世凱は、辛亥革命の推進力であった孫文らの南方革命派を威圧して初代大総統に就任し国会を停止して独裁権を確立して帝政復活まで企てた。
1916年袁世凱死後北方軍閥は、安徽派と直隷派に分かれて北京政権を争奪し1922年以後は、奉天軍閥がそれに加わり、連年軍閥戦争が行われた。革命派も初めは南方軍閥集団を頼って北方に対抗した。が
1924年孫文率いる国民党は、改組して中国共産党と合作し反帝・反封建を明確にし1926年7月から国民革命軍は北伐を始めた。
1927年4月上海クーデターで蒋介石が革命軍を裏切り国民党左派武漢政府と合併して南京国民政府を樹立した。1933年10月まで5回ほど中華ソビエト共和国を攻撃し本拠地を陝西省北部に移動させた。が1931年東北から華北へ侵略を始めた日本に対抗すべく、1936年末蒋介石が西安に行き監禁後国共合作、抗日民族統一戦線が実現した。
1937年7月日中戦争開始。1940年南京華傀儡政権樹立。
1945年第二次大戦終了し、1949年5月台湾亡命をもって一応の終りを遂げたとされる。 |
えんせいがい
袁世凱
(1859-1916) |
河南省項城生まれ。軍閥政治家、中華民国の初代大総統。
日清戦争前は、朝鮮で政治、軍事に手腕を発揮し、朝鮮の内治、外交に干渉した。日清戦争の敗北後、「新建陸軍」を組織。これが北洋軍閥および袁の政界進出の礎石となった。1901年李鴻章(りこうしょう)の没後、直隷(ちょくれい)総督兼北洋大臣となった。
日露戦争後、満州人官僚の巻き返しによって、一時下野、辛亥革命の勃発によってふたたび軍事の全権をゆだねられ、1911年11月に内閣総理大臣となり、清朝政府の実権を掌握した。1912年2月、臨時大総統の地位につき、中華民国が成立する。
その後、帝国主義列強の支持を背景に革命の成果を骨抜きにしていった。大総統の権限を制約しようとする議会の動きを、抑制し、さらにそれを契機に起こった「第二革命」を武力鎮圧した。1913年10月には正式に大総統となって、独裁を強化した。しかし中国のナショナリズムの高揚、反袁運動の拡大により、ついに1916年3月帝制取消しを宣言、討袁の続くなかで6月病死した。 |
そんぶん (スンウェン)
孫文
(1866−1925) |
広東省香山(中山)県の貧しい農家の次男として生まれる。名は逸仙イツセン、号は中山チュウザン。中国革命指導者、共和制を創始して国父と称された。
1905(明治38)年東京で革命諸派を合して中国革命同盟会を結成。三民主義を綱領に革命運動を推進。辛亥革命で臨時大統領に推されて、1912年1月1日中華民国を発足させたがまもなく袁世凱に政権譲る。第二革命に敗れ日本に亡命。
1919年中国革命党を改組中国国民党として軍閥に抗し三度広州に臨時政府を組織した。
1924年連ソ・容共・農工扶助を掲げ国民党を改組、国民革命・国共合作実現に努めたが、1925年3月12日北京にて病死。 |
しんがいかくめい
辛亥革命 |
1911年辛亥(かのとい)の年に起こった民主主義革命。
1910年10月武昌ブショウ新軍の挙兵で全国に革命が伝播し1912年1月孫文を臨時大統領とする中華民国が成立した民国革命、第一革命ともよばれる。
宣統帝退位と引替に袁世凱が大総統に就任、独裁強化を図った為、第二革命、第三革命が起こった。 |
さんみんしゅぎ
三民主義
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辛亥革命の指導者であり、中国国民党の創立者である孫文の唱えた政治理論。
民族主義、民権主義、民生主義をあわせて三民主義という。
米国第16代大統領リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」にヒントを得たものだが、内容的には孫文独自のもので、衰亡の危機に瀕した中国をいかに救うか、という「救国」の立場に発想の基礎を置いている。孫文の革命活動は、市民社会の建設を前景に置いて清朝打倒を目ざした辛亥革命の前後の時期と、この革命のあと軍閥混戦の事態が現出するなかで大衆闘争と結合した時期との、二つに分けられるが、三民主義の思想も、それに従って前後二つの時期に分けることができる。 |
しょうかいせき
(チヤンチエシー)
蒋介石
(1887−1975) |
中国軍人、政治家。中華民国総統。浙江省奉化県に生まれる。
1908年日本へ留学日本陸軍士官学校留学中、1911年張群とともに帰国して辛亥革命に参加。1923年孫文の命令でソ連の軍事事情を視察後、1924年黄埔軍官学校初代校長に就任。1925年の孫文死後は国民党二全大会で中央執行委員となり、同時に国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。1926年最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化、北伐を開始したが、1927年上海クーデターを起こして反共攻勢に転じ、以後一貫して共産党を攻撃した。1928年南京に国民政府を樹立して主席となって以来、国民党内での汪兆銘との対立や閻錫山、馮玉祥らの抵抗に出会いながらも、国民党の実権をほぼ一貫して掌握した。1936年西安事件で捕らえられ、抗日民族統一戦線の形成に同意したが、1937年の日中戦争で政府を重慶に移したのちの抗日戦争中もしばしば反共政策を断行。1945年抗日戦争勝利後は重慶で毛沢東との国共和平交渉に臨んだが、1946年にはふたたび国共内戦が勃発、1948年新しい憲政下の初代総統に就任。1949年いったん辞任。同年大陸を失陥し台湾へ逃れた。1950年総統に復帰。以後、台湾での統治には意を用いつつ反共復国を目ざし、アジアの代表的な反共政治家として活躍した。彼の独裁を非難する声とともに、第二次世界大戦終戦に際し「暴に報ゆるに怨をもってせず」と放送して日本軍の降服受け入れを評価する声もある。 |
シナ
支那
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「中国」に対する外国人の呼称。
王朝名「秦 しん」の名がサンスクリット語(古代印度の標準文書語)でチーナ、チンといわれ後に逆輸入されたものの漢訳とされている。
日本では、江戸中期頃に、一般化し以後次第に蔑称的な呼称となったため、第二次大戦後は一般的に使用しない。 |